





【水俣病の発生と地域の状況】
明治の終わり、鹿児島県の曾木の滝に水力発電所がつくられ、電力を活かすため、水俣では工場誘致の動きが起こりました。港や資材の提供など、町をあげての誘致運動が実を結び、1908年、チッソ工場が設立されます。
やがて1932年から、アセトアルデヒドの生産が始まりました。工程では水銀が触媒として使われ、その過程で生まれたメチル水銀が、無処理のまま海へと流されていきました。
海底に沈んだヘドロや魚介類に蓄積されたメチル水銀は、食物連鎖を通して人の体にも入り込み、脳や神経をはじめ全身を侵しました。
1958年、排水路が変わったことで汚染は不知火海一帯へと広がり、魚の大量死や、奇妙な行動をとる猫、原因不明の症状に苦しむ人々が現れました。奇病と恐れられ、差別や偏見の中で、多くの人が苦しみ続けたのです。



【水俣診療所の設立】
地域での集団検診がすすみ、被害者の運動が広がる中で1973年8月10日、水俣駅前の水俣旅館で第一回水俣診療所建設委員会が行なわれました。
藤野糺、馬奈木昭雄、隅本栄一の三氏の呼びかけに応えて集まった建設委員は「水俣病の治療を中心とする診療所の建設」をすすめていくことを正式に決定し、建設運動が開始されることになりました。やがて地域の住民が自ら健康を守る「健康友の会」も生まれ、診療所建設の力となり水俣診療所が開設されることとなりました。









【水俣協立病院の誕生】
水俣診療所は、開設から一年もたたないうちに、一日平均の外来患者数が百人を超えました。狭い待合室はいつもいっぱいで、階段まで人があふれるほどでした。しかし、入院を必要とする患者は他の病院へ紹介するしかなく、病院が必要だという声が高まっていきました。
1975年、有床化小委員会が開かれ、本格的に病院建設の準備が始まります。建設地の確保は難航しましたが、地域の支援と知恵で、現在の地に土地を確保。当時、関係者の中には圧力や批判を受けながらも、建設委員会が発足し、職員も地域に出向いて懇談会を重ねました。水俣病の現状や新しい病院の構想をスライドで説明し、住民の意見を聞きながら、地域とともに病院づくりが進められました。
そして1978年、水俣協立病院が誕生します。その歩みは、やがて在宅医療や介護、グループホームへと広がりました。患者さんのニーズにより透析室、眼科、介護保険の開始となり通所リハも開設されました。
現在では130人を超える職員が働く地域の拠点へと成長しました。また、水俣診療所時代より水俣病の症状に苦しむ患者さんのしびれや痛みに対して物理療法を行っていましたが、1990年4月に水俣協立病院の理学診療部門を独立し水俣協立理学クリニックとして開設しました。
クリニックでは理学療法の他に内科、精神科、リハビリテーションや老人デイケアや振動病にも取り組み、2002年に神経内科リハビリテーション協立クリニックへ名称変更後も市内外より多くの患者・利用者が来られています。












【水俣病の検診活動】
水俣診療所の職員たちは、診療を終えた夜も各地の懇談会に参加し、被害者の声に耳を傾けました。そこでは、生活や健康への率直な思いが次々と語られ、診療所の中だけでは見えなかった患者さんの暮らしや地域の実情を知る貴重な機会となりました。
こうした懇談会を通じて、検診を希望する人々が次々と掘り起こされ、診療所建設の大きな原動力にもなっていきます。その後も週末ごとに地域を訪ね、検診の輪は広がりました。福岡や鹿児島の民医連の協力も得て、出水、芦北、天草、八代へと活動の範囲は拡大。不知火海全域での集団検診や日常での検診も積極的に行ってきました。水俣診療所と協立病院が発行した診断書によって大多数の患者さんの救済につながりました。
一九七三年、鹿児島県の調査では桂島に水俣病患者はいないとされました。しかし、大火後に対岸へ移住した元島民が三次検診の対象となり、島民の不安が高まります。水俣診療所は島で懇談会を開き、検診を準備しました。30歳以上の成人六十五人を対象に行われた検診では、全員が「水俣病またはその疑い」と判定されました。これにより、行政が患者ゼロとした島から初めて認定者が生まれ、夫婦間で認定が分かれる矛盾も明らかになりました。
その後、民医連の医師たちによる精密検診と栄養調査が実施され、桂島住民の神経症状が長期のメチル水銀摂取によるものであることが科学的に示されました。この六年にわたる地道な取り組みは、慢性水俣病の存在を明らかにし、裁判や患者救済に決定的な役割を果たしその後の政治的解決や特措法の基準になりました。


















【未来へ―共に生きる医療へ】
協立グループの医療的なルーツは、かつて水俣病とともに苦しみ、立ち上がった患者さんや地域の人々と共に歩んできた歴史にあります。その中で意識的に追及されたのが、訪問診療や訪問看護など、在宅医療の土台でした。この流れを受けて「ケアセンター協立」が発足し、訪問系サービスが本格的に始まりました。そして現在は、地域包括ケア病棟へと発展し、院内には通所リハビリも併設しています。
水俣の医療圏において、地域包括ケア病床や居宅事業所をもち、訪問診療を本格的に行っているのは協立病院だけ。つまり、地域で唯一の「在宅療養支援病院」です。こうした機能を「地域包括ケアシステム」の中で見たとき、協立病院が担う役割は、高齢者の救急を受け入れ、地域への復帰を支える機能、そして在宅医療を提供し、暮らしを支える機能です。言い換えれば、「入院から在宅までを切れ目なく支えるコミュニティホスピタル」。私たちはその理念を、「治し・支え・寄り添う病院」という言葉に込めています。
地域包括ケア病棟を中心に、病棟・通所・訪問のリハビリが一体となった支援体制、在宅での訪問診療や看護、介護職との顔の見える連携。そのすべてが、地域の“支える力”となっています。今後の最大の課題は人材の確保です。病院リニューアルを通して、患者さんも職員も笑顔になれる場所をつくり、「ここで受けたい」「ここで働きたい」と思われる病院を目指します。そして、建物だけでなく、心も絶えずリニューアルし続ける。そんな前向きな変化こそが、地域に根ざした“なくてはならない病院”の原動力となり、やがては、水俣全体の健康づくり、まちづくり、人づくりへとつながっていくのです。











